昭和47年1月7日 朝の御理解 (末永信太郎) №47-004
御神訓一
今より何事にも方位は忌まずわが教えの昔にかえれよ
色んな悩みがあり、心配がある、問題がある。様々な悩みがあり、心配とか、問題というものが一遍にして解決という、心の上にね、心の上に解決するほどしの私は御教えだと思います。今より何事にも方位を忌まず、と。これは、わが教えの昔にかえれという、非常に深遠なところから出ておる御教えだと思うんです。例えば、方位とか方角とかということね。そういうようなものの、もう、いわゆる、なかった昔にかえれということなん。ね。人間の知恵がだんだん発達して、学問などが出来てまいりまして。
そして、言うならばでっち上げて行くわけですね。人間が作るわけです。方向学なんかていうものは、人間が作ったんです。例えば、天地そのものの中に、ああ、御教えにありますように、指一本で押すだけでも天地の親神様の御恩恵に浴しないところはないんだという所に立脚してからの、これは御教えなんですね。
天地の中に、どうぞ良いの悪いのという所はない。どこも一様に天地の親神様の教えをお守りの中にあるのだ、と。そのお守りの中にあるものが、あるものがね、方位やら方角やらというものが、あるはずはないんだぞ、と。だから、そういうものがなかった時代の昔にかえれということなんです。ね。
例えば、なら、そういう、あれはシナの何学と言うでしょうかね。日柄とか方位とか、ね、まあ、言うならば運命論にいたっても同じことであります。そういう事を言わなかった、そういうことのなかった、いわば、いわゆる本当の意味においての神代ですね。神代の昔にかえれということだ。
神代ということは、日本で言うあの神代と言うんですよ、私が今言ってるのは、ね。もう、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん世界です。天地の御恩恵、天地の親神様のお恵みの中に、どこもここもが天地の親神様の言うならばお懐の中だと言うのです。ね。
神様の懐の中にある私ども。その神様のお懐の中にありながらです、ね、あれなこれなと言うて、自分で悩みをつくり、自分で心配をしておる。自分で不安焦燥であるということなんです。わが教えの昔にかえれということは、そういうことだと思う。そこで、私は今日は、この御教えをですね、わが教えの昔にかえれということ。それから、方位を忌まずということ。例えば、私どもが白紙であるということ。白紙である時、例えて言うなら、何もなかった時なんです、言うなら。の、昔にかえれということ。
人間がこの世に生を享ける時に、紙一枚だって、肌着一枚だって着て生まれて来たちゅう者はありゃしませんよね。手にお金を握って来てござったちゅう人もないです。それこそ、本当の赤子である、何もない。今より、何事にも方位を忌まずというところを、今日はそういう、私どもがね、一切の問題を解決する一番大きな鍵はね、私どもが白紙にかえることなんです。それを、例えば、本当の信心生活ということ。
久留米の初代、大変な御人物でもありましたし、御神徳を受けられた方でございました。けれども、あんまり学問はなさっておられない。私とあんまり同じようなことなんです。ある時にご本部から偉い先生がお話に見えた。それが、非常に難しいお話であった。講題が、「信心生活について」ということであった。
私どもでも、あんまり難しゅう書いてあったり、お話はわかりません。ね。それに難しい言葉を使ったり、いわゆる文高いお話は、私どもの、まあ、低級な頭では分からない。ね、そういうようなことじゃなかっただろうかと思う。あまりに難しいお話ですから、お話を頂きながら、ただいま、せっかくご本部からわざわざこうやってお話に来て頂いて、結構な言うならば、信心生活とはという結構な講題のもとにお話を頂いておりますけれども、神様、私には一つも分かりません、どういう意味のことなのか。
神様、どういうようなことを先生はお話なっておるのでございましょうかと言うて、神様にご真意を伺われた。そしたら、石橋先生の御神眼にですね、見事な布団の上に、その、生まれたばかりの赤ちゃんが休んでおるところを頂かれた。そして、その上から、金銀の水引がかかっておる様子を頂かれてから、石橋先生が、ははあ、信心生活とはという話を、まあ、何時間に渡って、まあ、お話下さってあるけれども、私にはそれが分かりませんけれど。信心生活とは、こういう事だ、と。こういうことを、色々な理論だけでお話になっておるんだということを悟られたということでございます。ね。
信心生活とは、どういうことなのでしょうか、と神様にお伺いになりますとね、それこそ、(いっしもと?)、あの赤ちゃんがです、生まれたばかりの赤ちゃんが布団の上に寝せられて。しかも、その上からこう、水引がかかっておる様子を頂かれて、石橋先生、いわゆる、もう悟りの世界におられるのですから、はあ、そういう事ですか、と悟られたということです。どういう事を悟られたんだと思われますか。ね。
信心生活とはです、ね、一切が貴方の御働き、御物の中にあるんだという生き方だと悟られた、と。ね。あれも私でも、言うならば子供でも、あれは私が息子、と。これは、私の娘と、これは、私の親だ、と。これは、私が作った財産だと、これは、私が作った着物だ、と。ね。そういう思い方の中に問題があるのだ、と。そういう問題の中に心配が絶えないのだ、と分かる。
信心生活とは、ね、いわゆる、神様のいわばご守護の中に生かされて生きてあるということを分かる、分かっての生活が、信心生活なんだ。ね。これは、私の財産だと思うておるところに、さあ、その財産がために、不安である、心配である。その財産の全てが、ね、神様の御物であるという自覚に立った時に、問題は消えて無くなってしまうのです。いわゆる、真の信心生活とは、そのようにです、心配も不安も、何も無くなってしまうほどしの生活を、信心生活と言うんです。
そして、最後のところですね。わが教えの昔にかえれというところが、私は今日は、もう大変素晴らしいことだと思いました。ね。どのような難儀、どのような財産、物でありましてもです、ね、これを一応、神様にお返ししたという感じですかね、神様の御物だという。
そこにはね、私どもがそこに感じておる難儀そのものですらが、もう、それは私どもの物ではないということ。例えば、財産て、なら、借金を負うておるという事でもそうなんですよ。借金が自分のものと思うておるから、頭が痛いのですよ。いいですか、今日はね、その人間のギリギリの問題、難儀から開放されるほどしの御教えなんです、これは。ね。心配があるというのはです、ね、あれも私のもの、これもという中にあるものです。その心配そのものもです、ね、例えばそのところを玉水の湯川先生。ね。
当時、それこそ日本一と言われるほどしの大徳の先生の、いわばご流儀とでも申しましょうか。ね。大阪の教会ですから、もう、ほとんど商売人の方が多い。ですから、もう、経済に行き詰まった、さあ、困ったというような人達がこちらには多いわけですね。手形が落ちないとか、さあ、もう財産がもう、潰れるとか潰れないとかといったようなお願いが多い。
そこで、あの、湯川先生は、それを全部わしに預けよという意味の事を仰っておられます、心配を。ね。心配は持って帰るなと、ここにおいて行け、と。で、色んな逸話がありますね。お商売でも、今までは俺の商売だと思っておった商売を、神様の御商売だと思えと、こう仰った。神様がご主人ぞ、と。家内は女中さん、ね。言うならば、主人はそこの支配人。そういう気になれ、と。
だから、ご主人にいくらいくらの借金がございますと言うたら良いのじゃ、任せるのじゃ。それを、自分が才覚しようとするところに、悩みがあるんだ。まあ、一例を言うと、ある商売人の方が参って来た。もう、いつもいつも、毎月赤字で困ってる。何とかしたいというところに、お導きを頂いて参って来た。そこで、先生がその信者に仰っておられることはですね、今日からはもう、今日からはね、例えば売上がもう売上げっぱなしにせろ、と。金庫の中の金は数えるなと仰っておられる。そして、例えば集金に来たら、ある時払え、ない時は払うなと仰った。または、あるだけ払えと仰った。ね。
昔はあの、ここの柱に鎖でつけたようなやつで、お金をそれに、こうこう投げ込んで入れていくわけですよね、お商売のお家は。だから、それに入れるばっかり。ね。そして、ひと月の一番最後に開けろと言われてある。毎日、計算しないわけです。いくら売上があった、いくら、はあ、どこにいくら払わんならんこともない。さっさと売って、そこの中にためるばっかり。そうしたなら、集金に来たら開けてみよ、と。
そして、あるだけ払えと、こう仰る。これが実行出来るか、と。はあ、まあ、言うなら、こういう金がないないで心配しておる時ですから、そういう事でおかげ頂くなら、こげな簡単なことはなか。そんなら、それを実行しようという事であった。ね。
ですから、さっさと売上が溜まるばかり。それで、集金に来たら、ね、あるだけ持ってってもらう。開けてみるところが、ほんなわずかしかなかて、そのわずかだけを、もう、あるだけですと言って払っていけと、こういうわけなん。いよいよ月末に締めくくってみたら、もう、それこそ、もう、きっちりしたことであったということです。先生の仰る通りにさせて頂いたら、今月は、ね、余りもしませんでしたが、おかげで足らんこともございませんでしたというおかげを頂いた。
そこにね、もう、素晴らしい一つの理があるわけですよね。だから、それを例えば、理論づけますと何時間のお話になるでしょうと思います。任せっきりということ。ね。だから、理屈は仰らなかった。ただ、そこんところを実行させなさった。ね。それから、その翌月。やっぱし同じことである、貯めるばっかり。こう、売上を計算しない。25日になった時に、もう、あと五日ですからね。だいたい、どのくらいどん貯まっとるやろうかて、お金が。今月の支払い、いくらいくらじゃが、まあ、それに近づいた、その(金銭?)が貯まっておるだろうかと思うて調べてみた。ところが、まあ、月末までには、まあ、いくらいくら足らんということがハッキリ分かったわけ。
月末になって開いてみたところが、どっこいお金が足りない。それで、それを先生に、またお届けをさせて頂いたら、先生が、お前は計算したなと仰ったそうです、お金を。例えばね、お金の計算をするということは、もう自分の頭で考えるわけなんです。だから、ここのところの理が分かったら、計算してもいいですけれどもね。これは、私どもの場合なんかは、もうそげん、もう本当にそうでした。ね。
いくらありゃあ、いくら払わにゃ、いっちょん分からん。と言うて、なら最近は、計算したからと言うて足らんというようなこともない。その理が分かって、分かり込んでからの事だからなのですよ。ね。言うならば、まだいくら足らんというような時、これは、まあ、いくら足らんというような時でも、ひとつも心配をしないからですよ。ね。そこまで行ったら、計算しても構わん、帳面につけてもいい。ね。
それがわからん間はです、ね、いわゆる、神ながらと申しますか、神様にお任せをするという、その心。はあ、実は25日の日に、まあ、あと五日だからいくら貯まっとるじゃろうかと思うてから調べてみました。それ見ろ、と。ね。あれほど計算をするなと言うてあるのに、計算するから足りんのじゃと言われたという話があります。ね。素晴らしい理です。
例えばです、様々な悩みがある、難儀がある。それは、私どんが作った難儀である。方位でも方角でも、人間が作ったものである。それに縛られて難儀をしておるのである。教えの昔にかえったのである。神ながらな世界にかえる。ね。いわゆる、何もない白紙の状態にかえる。いわゆる、石橋先生の本当の信心生活に入るのだ。人間が生まれて来た時に、ね、着物一枚でも着てきた者はなかろうが、と。
と言うて、なら、着らんわけにはいかん、食べん訳にはいかんから、着てもおありゃ、食べてもおる、家にも住んでおるけれども、その全てが貴方の御物であるという自覚に立てということなん。一切が貴方の御物。どれだけ財産を持っておっても、その財産は神様のいわばお預かり物なのだ。私の息子と言うておるけれども、私の息子じゃない。神様から神の氏子を自分が預かっておるだけのことなんだ。ね。
ですから、家におる時には、もちろん、なら、もう、子供の面倒は親は見らんというのじゃなくて、お預かり物であるから、お預かり物として、大事に大事にしなければならん。これは、主人であったって、家内だって同じこと。神様の御預かり物。ね。ただ、大事にすれば、いよいよ、わが教えの昔にかえってさえおればいいのである。この辺のところがですね、今日、私も初めて頂きよるところですから、よく頂いて頂きたいと思う。わが教えの昔にかえれ、と。
言うなら、人間が作ったいろんな規則とか、ね、例えば、その方位方角といったような、ね、きたそういう学問ですらが、人間がつくって。そういうものがなかった昔に返れということはです、いわゆる、白紙にかえれということなのである。白紙に返るということは、一切合切を神様にお任せしたという事なのである。一切合切が神様の御物であるという自覚に立つことである。神様の御物であるから、私の( )いかん。それこそ、いちいちご主人に聞かにゃいかんということになる。いくら金を使わせて頂こうと思います。どこに幾ら払わんならんですが、とご主人に相談しなければいけん。ね。分かりやすく言うと、そうなん。一切が貴方の御物であるという自覚。それは、なら、財産だけのことではない。反対の借金の場合であったって同じことなんだ。ね。いわゆる、ご主人の借金なのだ。
だから、私はご主人が言われるとおりのことを忠実に守ってさえ行けばいいのだ。さあ、今日からは、教えの昔にかえれということは、今の例を持ってするなら、さあ、今日からは計算どもするなと仰った。もう、教えの昔にかえったわけ。わしが開けて良いという時に開けにゃいけんぞ、と。それを、25日に開けた。すぐ言うことを聞かん。あと五日間で、まあ、いくらいくらと思いよったところが、さあ、それが出けなかったという理が少し分かって来るでしょう。
わが教えの昔にかえれというのは、そういう素晴らしいことなんです。ね。白紙にかえることなんです。一切が貴方の御物であるという自覚に立つことなんです。ね。それを、例えば指摘して石橋先生に言わせると、お前でも生まれてくる時、何一つでも持ってきたことはないじゃないか、と。ね。
いわゆる、本当に赤ちゃんが生まれてくる時に真っ裸で生まれてきた。それに、さあ、着物であり、布団であるとこうしておるけれども、その一切合切が、それは自分の命までもがです、神様に一応、水引かけてお供えした生活を、信心生活と言うのだと仰った。素晴らしいことです。私どもでも、どういう心配があっても、ここに立脚したら一遍に解決するです、問題は。ね。
そこに人があり物があり、ね、様々な難儀があるというのは、言うならば迷いであって。ね。私どもが本当の信心生活の姿勢というものが出けた時にです、ね、例えば問題がある時に、何もない真っ裸の私である、と。実を言うたら、その、それすらも、これは私じゃない。ね、神様の御命であり、神様の御体であると頂けた時にです、ね、病気なら病気は、もうそのまま解消するでしょう。
ね、難儀な問題はです、ね、例えば借金をたくさん持っておる。その場で借金が返されるという意味じゃないですよ。もう、それは心配せんでも良いほどしの道が必ずつくということなんです。絶対です、これは。ね。そのかわりに、わが教えが昔にかえらなきゃいけんのです。ね。
わが教えの昔にはかえらずに、はあ、自分で、どこにいくら払わんならん。あれはどうしようと、自分がこうしようと思う心が、おかげにならん元なん。自分で計算する。ね。今日のこの、わが教えの昔にかえれということは、なら、どういうことかと言うとです、ね。わが教えの昔、教祖様が天地の親神様から受けられた教え。その教えそのものに返れということ。今日は、ここは、こういう風に頂かにゃいかん。
だから忠実にです、神様が右向けと仰ったら、右を向いとったらそれで良いのだ。それを回れ右するもんじゃけん、また苦しか。ね。
もう、とにかく、いわゆる自分が白紙になって、本気で教えに取り組むということなんです。ね。ここにね、全ての難儀の解消法というかね、解決、本当の意味においての解決は、ここなんです。それの手前のところをです、これも自分の財産、これも自分の物、これも自分の息子と思うとる間、どうぞ息子が立派に成長しまうように。自分の息子、自分の財産。だから、減らされん。だから、やはり心配になる。
だから、そこをまた、見やすう心配する心で信心せよというようにも御教えられた。けれども、どうにも出けない時、ね、言うなら、そのさっきの借金の場合でも、人間のだけの場合でもいいです。もう、どうにも、それこそ神様の前に無条件で降伏、手を上げなければならないよう時ですたい。ね。神様にお任せするよりは他にないのだ、と。それが、白紙になることだ。それが、何事にも方位は忌まずということは、そういうことなんだ。自分で才覚するな。
そうして、私は貴方の仰る通りに、右を向けと仰っしゃりゃ右を向けましょう、左向けと仰りゃ左を向きましょうという、その忠実な生き方だけを守って行けば良いのである。そして、問題がまたあったならば、ね、神様、只今こうこうでございますと、例えば、なら借金の場合であるなら、どこどこから、いくらいくらの借金取りが来とりますとご主人に申し上げたら、それでいいのだ。ね。
はっ、なら、今日はお前、断り行けと神様が仰ったら、はいちゅうて、断り行きゃそれで良いのである。向こうが、待つの待たんのちゅうことは、もう、貴方のことなんであって、こっちのこっじゃないのだ。ね。お互い、せっかく信心させて頂くのでございますから、ね、本当の信心生活がさせて頂きたい。本当の信心生活とは、一切合切が、もう一切合切が貴方の御物である、貴方の御働きの中になからなければ、生きとし生ける者全ての者がそうなんですけれども。ね。もう、一寸先は、一寸言うたら闇なのである。
それを自分で生きようとするところに、ね、難しい問題になって来る。神様が右を向けと仰れば右を向くという生き方。言うなら、教えに忠実である。白紙になって、ただ、なら、白紙になっただけじゃいけん事が分かりますよね。わが教えの昔にかえれというところ。
白紙になって、ね、白紙になって、教え。例えば、御地内をみだりに汚すなよと仰ったら、本気で御地内をみだりに汚さん行に入ったらいいのである。いや、そこに汚れたところがあるなら、むしろ、それを清めて行こうというような生き方になったら良いのである。自分の今の難儀、悩みとは関係がないのであるけれども。ね。それが関係が多いにある証拠にはです、忠実に教えに取り組むということによって、おかげになるのです。ね。食物はみな人の命のために、天地の神の作り与えたまうものぞ、と。
と頂いたら、本当に天地の親神様が命のために下さった物だと推し頂いて頂く心にならせて頂く。それが、実感が湧かないにしましてもです、そういう心になって、それを忠実に守って行くというだけのこと。ね。しかも、まあ、教祖様が、わが教えの昔という、その教えというものはです、人間がとても、そげなことは出けんというなことは、一言だって仰っていないということ、教祖様は。ここんところが素晴らしいところよね、お道の信心は。ね。どの教えを頂きましてもです、自分がその気になりゃ、誰でも出来るほどし、誰でもそれを踏み行うことの出けるほどしの御教えなのです。
それを、疎かにしては、わが教えの昔にかえったことにならない。わが言うこつばっかり、神様に頼むこつばっかり。そして、本当に頼んだかと言うと、本当に頼んどらん。また帰りがけ、その心配を持って帰っとるというようなこと。頼んだが最後、お願いしますよち。はっ、ほんなら承知しましたと神様が弾き受けて下さったならば、もう、そこにおいて行かにゃいけんの、だいたいは。ね。
それをまた、心配を持って帰る。ね。けども、そこを繰り返しくりかえし、なら、また心配する心で一生懸命信心修行をさせて頂きよりますと、不思議なこと、どんな心配も悩みもです、ね、もう、悩まんで済むようになる。もう、お任せするとね、心が楽になる。ね。その楽になる心に、おかげが頂かれるのです。教えの昔にかえるからです。ね。一切が神様の例えば御物としての頂き方。ね。
言うなら、ね、通帳があるとしますかね、銀行の通帳が。その、例えば通帳がです、ね、大坪聡一郎名義ではなくて、ね、天地の親神様の名義にかえられなければいかんのです。それを私が預かっておるだけのこと。ね。もう、本当に、これは、私自身のことでございますけれども。ね。
なら、私が悩みがないか、心配がないかという事はありません。それこそ、夜も眠られんようなこともありますけれども。ね。わが教えの昔に返らせて頂いたら、いわゆる、白紙に返らせて頂いたら、あれがあるために、これがあるために心配しよることばっかりなんです。ね。ほんなこつ、これが自分のモンで(ばし?)あるごと、神様の御物で気がつく時に、もう心がその場で楽になってしまいます。その楽になる心が、いわゆる信心生活、真の信心生活をさせて頂く者に与えられた安心生活、喜びの生活ということになるでしょう。今より何事にも方位は忌まず、わが教えの昔にかえれということは、今日聞いて頂いたような、いわば深遠で待つ、深遠でまず、深遠ではない、もう、浅いほんの、そこにあるということ、おかげというのは。
神も昔と言うたら、もう実に深遠なことである。ね。何事の方位は忌まずということ。人間が作った、いわば世界の前の、いわゆる神代時代のような時代に返るということは、非常に深遠なようである。かと言うと、わが教えの昔にかえれということは、もう、只今からのことである。深い、そして、浅い。いわゆる、理屈じゃない。本当に、ただ神様の仰せ通りに仕ってさえおれば。そして、神様の仰せ通りにそれを行じさえおれば、問題はないのである。解決の、いわゆるおかげにまでなって来るというほどしの、今日は御教えでございましたですね。どうぞ。